昭和57年9月21日 朝の御理解   入力者松本正宏


 御理解第四十五節 「 世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
 とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」

 三方様踏むなと、信心でいう、一番大切なものというような内容がこの中にあると思うですが、その大切なものを、(?)るような、事ではなくて、それをいよいよありがたい尊い物として頂く。それには、どうしても信心が好きにならなければなりませんね。信心が好きという事は教えを頂く。その教えをいよいよ行じる。その、楽しさ喜ばしさというものが、とりもなおさず、三方様を三方様として尊いものとして頂く。そしてただ、おかげさへ頂けばよいというのではなくて、信心が好きにならなければなりません。でないと信心のね、その、(りゅうきょう)というかね、いわゆる架橋というかそういうその信心を頂かなければ頂けない味わいというものを頂くこともそれに触れることも出来ません。 もう、十年も前だったでしょうか、藤山寛美さんが、大変な借金で、藤山甘美ちいうのは、喜劇俳優ですね。その人のお弟子さんが、学院に入る事になって、何か、久留米の井上さんか何かの関係だったと思うのですけれども、その人が色紙に何か書いてもらったというて、まあ、ここに、確かここの井上さんだったと思うのですけれどもね、持ってきてくださった。もうそれこそ、借金で首が回らんという時分でした。それで、私が、あの人、あの芸が好きですから、その縁があって、お祈りをさせて頂いておりましたが、その色紙に、三昧という事が書いてあった。いわゆる三昧(?)、釣り三昧とか、念仏三昧とか申しますね。あの、信心三昧と。この人はもう、芸三昧で行く人ですね。もう借金があるとそげな事思う、もう芸の虫といわれるくらい。この人のね、もう、その、ものよさというものは、後にも先にもこういう俳優はでないだろうと(?)が言っているのです。
 ね。もう、確かに、その、間の良いこと素晴らしいですね。間がいい。台詞と台詞の間がいい。実に絶妙です。ね。藤山寛美というご理解を頂いたことがあった。私も藤山も目指しておるね。富士は日本一の山と言われる。私の藤は富士山の富士。寛美とは寛い美しいと書いてある。いよいよ豊かな大きな心、美しい心だ。いわゆる日本一ありがたい私になろうと。まあ、言葉を変えると世界一ありがたい私になろうという事なんです。ね。やっぱり富士山を目指す。それには、まず限りなく美しゅうもならんならんし、ね、寛い大きな心にもならなければありがたくもなれません。それにはやはり、私共、三昧卿が開けてこなければなりません。信心が好きにならなければなりません。
 ね。好きですから、泣く泣くでも教えを行じるのです。守るのです。そこから守らなければいけないいわば、三昧卿が開けてくる。その、三昧卿、いわば、ありがたい、それが、おかげがおかげを呼んでいくのです。昨夜は菊栄会でしたから、遅く終わりましてからいつものように文男先生足をもみに来てくれました。とうとう長い時間かかって、黙って来て、黙って帰っていくわけですけれども、その、長い間揉んでもらう間に夕べはもの言いました。ちょこっと、いつももの言いません。けれどもそこにものを言わんでも、通う合い(?)あるわけなんですね。今夜はちっと寒うなかろうと私が言う、いいえ、そげんでもありませんよとこう、(?)揉んでもらいながら、二人交わした話はそれだけでした。なら、足を揉んでもらって、うとうとしておりますから、いつ帰ったか分かりませんでした。あれは私がなら心にかけておるとですね、おかげ頂きましたというて帰っておる時に寝とっちゃいかんと思うてから、ね、おきとかにゃん。片一方まだ、(?)おかげ頂きましたぐらい言うてかにゃいかん、そういうものが何もないのですね。私としてはそれが一番いい。黙っとっておって通い、黙っておって帰る。だから、ご苦労さんも言う事もいらん。それでいて、ご苦労さん、いいえ有り難うございます以上のものを何かそこに通うものです。その事を私文男さんが帰りました後にお礼をもうさせてもらいましたら、あの、無の素晴らしさということを頂いた。いわゆる、寛美があの、ね、まあそれこそ、日本一の間の素晴らしいということは、もうこの役者をおいてはないと、(?)してます。確かに間がうまいです。台詞と台詞の間がうまいです。これは私と皆さんの場合であってもですね、その間がとれるようになったら素晴らしいです。ね。そして、まあそんなありがたい思いでおりましたら次々とお知らせを頂くのです。
 もう、どれだけあるか分からない、柿色のここの、今ないでしょうかね、あの、合楽理念を語るという小さいパンフレットが出来ましたよ。あれよりもっと薄い、けれども、もう、どれだけあるか分からないほどしの沢山な、その、まあ、そういう、印刷物がおいてあるところを頂きました。皆さんが願われる、どうでも、和賀心時代を世界万国津々浦々にというその事だと思いました。人間の幸せにな書である。人間が幸福になるため。神様と一緒に本当に喜び合える世界。そういう、まあ、合楽理念の生粋のようなものが誰にでも分かるように、しかも、どこの人にでも分かるように英語とか何々語とか、世界中の人に配って回るような感じの本なんです。
 表紙は柿色でした。はあ、本当に私が今日頂く、日本一ありがたい私になるという事はそのまま世界一ありがたい私になるということに通じるわけでしょうけれども、そのありがたくなる元はこれなのだと。ね。何々は御理念を持ってするほかはなしと。しかも、簡単、明瞭。ね。しかも、愉快になってくるという。いうならばそういう簡単な人間の幸せになってくる手立てがこの薄っぺらなこの、小冊子に、記されてある。またそれをなら、読んで自分のものにしようとしたら、もうそれこそ何十巻厚い本にしても足りないほどしのものである。ね。私が何十年間お話して参りましたのがテープになりましたり、記録がとってあります。もう本当に莫大なものです。ご理解、ここに貯めてあるというのは。ね。けれどもそれを、ようやくして人間が幸せになるためには、天地との交流です。それにはまず、一切神愛であるわけを分かり、その天地との交流の手立てが色々と説いてあるわけです。しかもその気になればその日から誰でもが実行できるというほどしに、見やすい。小さい、薄い。薄っぺらな、人間の幸福の書といったような世界万国津々浦々の人に全部一冊ずつ配っていって、まあ、これで勉強しなさい、この生き方を身に付けなさいと、そういう働きが起こってこなければならないと思う。為にはいよいよ合楽理念、御理念によって助からなければならない。こういう助かり方が頂けれるのだと、神様と私が合楽し合えれる世界。同時に神様と私共の間に、黙っておっても通じる世界。その、間の素晴らしさを身につけていくという事。神様も、信じ、こっちも信じ信じ信じられる中。ね。そういうものがね、段々出来てくるおかげを頂かなければならない。今朝から私もう一つ驚いておることがあるのですけれども、昨日3時の研修の時に、ここに、ちょっと控え室にするこれに、こんなに書いてあるんです。それをどうも自分、私が目が薄いから今この、筆を使われませんから、この、これを使うのですよね。それで、書いてある筆で書いてあるか分からんけれども、自分が頂いた教えのように、自分が、よう、私に似た字を書いてありますから、先生方にこれは誰が書いた字じゃかのちいうてから見てもらいました。そしたらそれは幹三郎先生ですよち言うわけですよ。そういえば、幹三郎の字のごとあるなと言うて、それで、私、書いてある内容が素晴らしいのです。ここで、御結界奉仕の時に頂いた事なのでしょうね。これに大変、また、(?)があるのです。心行とは神行と書いてある。心の行とは神の行と書いてある。私もこの事を頂いた時には、これは、幹三郎が頂いたことでしょう。ここで。それをここに書いてあるわけですね。心行に徹することは、神へなる行に通じるものと書いてある。ね。心行に徹する。心行は神行だと。神の行だと。神様がなさっておられるのはこれだと思うですよね。黙って治めるという勿論心の行は神行に通じるのだと。ね。心行に徹することは、神になる行だと。なら神にならんでいいち言うて、合楽ではどうしてもお話は神になる話ばっかりですよね。御神徳を受けると。ね。いうならば和賀心。いわゆる、生神金光大神を目指す、お話ばっかり何です。合楽のお話は。ね。ですから、それに徹するという事。そんならここに、何に徹するかというと心行に徹するという事。それは神行に通じるのだ、神の行に通じるのだと。ね。だから、黙って治めるということぐらい、なら、本気で黙ろうという事になったら、こんなに見やすい事はないでしょうが。どうにも言わんでよかっちゃけん。どんな場合であっても黙って治める。そこに、神様の心もわかってくるようになり、なるほど、心行、神の行だ、この行だとその体験を通して分かってくるようになるのである。昨日誰であったでしょうか、修行生の先生が、高松先生だったでしょうか、もう本当に、心行こそ、素晴らしいことはございませんというお届けをしました。もう、ここで一言言うとかなんとならんといったような事があったわけですね。修行生同士だったでしょうか。いわゆる人間関係なんです。もうそれが、いわゆるえらいえげつな言うからこれはちょっと言うとかなんならんかなと思うたけれども、もう、これが心行と思うて、まああの、申しませんでしたと。そして、後からその方がそんなこと言う方じゃないですけれども、本当に、がみがみ言うてすみませんでした。ちょっとこう言うて本当に私はこういうところがというて、まあお詫びというわけじゃないけれども、そう言われたとこういう。だから心行とは自分が助かることだけではない、自他共に助かれるもの、唯一の修行だと言う事を感じましたという御届けがございました。ですから、そういう行が続けられていく限り、確かに心行は神行という事になりましょう。神の行です。それに徹するとここに書いてあります。心行に徹する事。心行に徹する事は、神になる行だと。合楽では皆神になるお話ばっかりなんですよ。和賀心が神に向こうて行く話ばっかりなのです。しかも、この世だけではない。それをあの世魂の世界に入っても、ね、いよいよ生神を目指す修行の出来る手立てを、今私共が、この世はあの世の為にあると言われるのですから、ね、そんなに、大事な事なんです。こんな事をね、まあ簡単ないわゆる人間が幸せになれる手立てといったようなものが、昨日薄っぺらなパンフレットに、記されてあって、しかもなるほどと合点の行く、その道理にあうた話を書いたものを世界中の氏子が一人一人配らせてもらえるようなね、いわゆる皆さんが願われる、和賀心時代を世界万国津々浦々にというのはそういう願いの事だと思う。ね。私これにその、いうなら、また、皆さんに聞いて頂きたいというのはね、昨日丁度、研修前でした。福岡の、石井きんじさんが、(?)一人で参ってきました。お母さんは倉本さんなん。この頃からあの改式やらして、大変おかげを受けておられる方なん。今朝から母がお夢を頂きました。それがあんまりまざまざとしたお夢でしたから、ここに、書いてまいりましたというてここに、便箋に一枚書いてきておった。どういう事でしょうかと、それにはどういう事が書いてあったかというと、三男幹三郎はだぶると書いてあった。三男幹三郎ちは、私の三番目の幹三郎が、幹三郎が、あや、幹三郎で、いわゆる母があの人が生まれる時に、お神酒徳利を頂いたのです。御心眼に。だから、お神酒という字を書くわけにはいかんから、ね、あり難い、勿体無き、恐れ多きという神酒、意味でしょう。そこには、徳も利もついてくるといったようなお知らせを頂いて、三番目の息子でしたから、三郎とつけて、幹三郎と命名したのです。ね。その、三男幹三郎と、これと、その書いてきておるのが、ダブっておいてあるのを、今朝から御神前で頂いたのです。倉本さんが頂かれるのは、三男幹三郎だぶるて、それでははあ、これが、幹三郎が書いたとすると、幹三郎が、頂いておる事とこれとがダブって頂いたら今日の御理解になるわけです。ね。だからこれは、どうでも今日参拝をしてみえる、信者に一人一人にこの事は聞いてもらわんならんという事になります。また、皆さんも今日、ここが頂きところと思わなければならん。神様との間に、間が持てる。ね。素晴らしい間柄というものがです、神様というなら天地と合楽し合える世界。それは私共が天地人一如の世界に住む以外にない。それには天地の心を心とする以外にない。それには黙って収めるこの御理解じゃないけれどもね、心行に取り組む事だと。心行は神行だ、神の行だと。神の行ちゃえらい難しいごたるけれども、とにかくそれに徹するという事。黙って収めるという事に徹するという事。高松先生が言うように、自分が助かるだけではない、人までが助かるのだという事。そういう味わいを段々味わうてくる所からです、私はいよいよ信心が好きになり、三昧興が開けてくる。藤山寛美じゃないですけれども、いよいよ、心は寛う美しくなってくるでしょう。そこに、おかげも広い美しゅうなってくるでしょう。
 そこにおかげも寛い豊かなものになってくるでしょう。ね。そういうおかげを皆さんが体験してです、合楽で言われる、ね、合楽理念は簡単です明瞭です、しかもおかげが確かです、しかも愉快にまでなっていけれるんです、といったようなものを銘々が体験させて頂いて、神様との交流を図る手立てとしてです、いよいよ黙って収める。いわば黙って収めるところに三宝様をふんずける事になるのではないでしょうかね。ここは一口言うとかにゃと言うて、いわんでよい、言うては勿体無いことを、いう事は勿体無いものをふんずけにする事になるでしょう。どうでも、一つ、あの、今日の頂きところは、倉本さんが頂いておられるところ、三男幹三郎がここに記しておるこの事、この事がとりもなおさず今日の御理解でいうと、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるとこう、三宝様とは、私は今日は教えをふんずける事だ、大切にしない事だというふうに聞いて頂いた。私共教えを守らないという事は三宝様を踏むことになる。だから目がつぶれる。いわゆる、信心とは、肉眼をおいて心眼を開けと仰る、いうならば、心眼が段々開け出してくるとがまたつぶれる。心眼が開けたら、そこには一切神愛の世界が見えてくる。一切神愛と感じれれるようになる。そういう世界に住みたい。回りくどいようですけれども、倉本さんが頂かれたこと、そして私のここの御結界の机で、倉本さんが言われることが、ここに幹三郎が書いておいておることがダブっておる。今日はいよいよこれを大切にしようというのが今日の御理解だったと思うですね。
                                     どうぞ